院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


ウェディング イン ハワイ


 夕べは少し飲み過ぎた。楽しいお酒だった。
「おとうさん、タクシーのチップあげすぎ。」
息子と娘の言葉を思い出した。
「チップはね、気持ちなの。キ・モ・チ! 気分のいい時はね、バーッとやるの、バーッと。」
気前のいい自分の言葉も思い出す。
二日酔いの頭もようやく醒めかけて、本来のセコい性格が顔を出す。「ちょっと多すぎたか」と、プチ後悔をしていると、
「昨日は上機嫌だったわね。子供相手に、『チップはこうやってあげるんだ。』って得意げに話してた。真っ赤な顔をして。」
細君が笑って言った。そして四枚のカードを差し出した。

 私たち家族は姪・麻希の結婚式参加のため、ホノルルに来ているのだった。麻希の夫・江上謙さんは、高校から渡米し、大学を卒業。現在は新進の建築家としてカリフォルニアで活躍している。麻希はカリフォルニアのアートセンターを卒業したのだが、その在学中に彼と知り合ったそうである。仕事の都合やビザとの兼ね合いもあり、帰国が困難とのことで、ホノルルでの挙式となったのである。
 結婚式は、ハワイでも由緒あるセントラルユニオン教会。その正面入り口で、「きょうは良い天気になって良かったですね。」流暢すぎる日本語で話しかけてくる変なオジサン。「そうですね。」少しぞんざいに答えた後で、その人こそがここの神父さんであることを知り、「あちゃー」と心の中で叫んだ。神父さんは、外見は全くの白人だが、日本生まれで日本育ちであるとのこと。ゴシック様式のカセドラル、荘厳で厳粛な中にも、親しみ深く慈愛あふれる雰囲気での式の進行は、この神父の人徳のなせるものであると得心した。私も慣れないタキシードに身を包み、生涯忘れ得ぬ瞬間を胸に刻んだ。
 吉川家の初孫として生まれ、家族の愛情を一身に集めて立派に成長した麻希。幼い頃は疳の強い子で、皆が振り回された。お嬢様育ちで、何の苦労も知らない麻希が、アメリカで大学を出たいと言い出した時、姉(麻希の母)は大きな不安を感じながらも、娘を信じて英断を下した。そして麻希は立派に大学を卒業し、良き伴侶を得て、いま純白のウェディングドレスに身を包んでいる。姉が泣いていた。私の母(麻希の祖母)も泣いていた。麻希を一番可愛がっていた、父(麻希の祖父)も、天国で涙しているだろう。

 結婚式のあと両家そろっての夕食会はモアナ・サーフライダー・ウェスティンリゾート。新郎の祖父は数年前に亡くなられたが、高名な東大の名誉教授。その夫人は百歳であるが、矍鑠としておられ、今回の結婚式にも参加された。さてその夫人であるが、日本人女性として初めて英国に留学された経歴を持ち、現在も刺繍の個展を開くほどの女性である。年齢が俄には信じられない程の明晰な頭脳と、気品のある物腰に、私たちは魅了された。そして、彼女に対するご家族の優しさあふれる心遣いに感銘をうけたのである。家柄もよく教養もあふれる江上家との団欒は、当方にとってはかなりのプレッシャーになるはずであったが、家風なのか、飾り気のない気さくな方々で、すぐに打ち解け合い、楽しく有意義な時間を過ごした。そして、ちょっと飲み過ぎたのである。麻希と謙さんが、私のテーブルに来た。昼間の見違えるような綺麗な花嫁が、今はお茶目でチャーミングな普段の麻希に戻っている。謙さんに、「いいお嫁さんを見つけましたね。」と心の中でつぶやきながら、「麻希をよろしくお願いします。」と言って握手をした。酔った勢いで強く握った手のひらから伝わる感触は暖かく弾力があって、彼の人柄を表していた。何も案ずることはない。麻希は幸せだ。

 麻希に初めて会ったのは、29年前にさかのぼる。羽田空港、寒空、薄曇り。姉が出迎えに来ていた。大学受験に失敗し失意の中、私は逃げるように沖縄を後にし、姉の住む東京に来たのだ。姉は妊娠七ヶ月で、そのおなかの中に麻希がいたのである。姉はことある毎に私に言う。「あの時の憔悴しきったあなたの姿を思い出すと、今でも胸が痛くなる。何かから隠れるようにトレンチコートの襟を立て、大きな体が、消え入りそうなくらい小さく見えた。」と。妊婦独特の幸せのオーラを纏った姉と屈託のないおおらかな義兄に会えて、私は元気を取り戻した。「新しく生まれてくる家族のためにも、逃げる訳にはいかない。あと一年必死で頑張ってみようか、自分の夢に向かって。」私は、沖縄に舞い戻り、再び受験勉強へと打ち込んだ。出産のために実家に戻ってきた姉と母が、生まれてくる赤ちゃんの布おむつを縫う光景が思い出される。初孫の出産に、世界中の灯りを集めたように我が家が明るくなった。乳飲み子の成長する様子は、心を和ませるものだ。苦しいはずの浪人時代も、麻希のおかげで楽しいものとなった。
 その年の夏、麻希のために歌を作った。当時はフォークソングのシンガーソング・ライターを気取っていたのである。Hi little baby! My little niece! In May, It was a lovely day when you had been bone, when I had become an uncle so young. My Mother says, my sisters say you will be a pretty girl as you grow up gradually, and I will deserve to be your uncle.” (訳:ちっちゃな赤ちゃん、私の小さな姪っ子よ。五月、晴れ渡ったすてきな日にあなたは生まれ、私は若くして叔父さんになった。母が言う、そして姉達が言う。あなたは成長するにつれ、かわいい女の子になって、私はあなたにふさわしい叔父さんになってゆく。 注:実際は雨の日に麻希は生まれた。当時の英語力なので表現が未熟で、文法的に?の部分もあるが、そのまま掲載する。)この曲を作った翌日、私はギターの弦を切った。こんな悠長なこと(歌を作ったり歌ったり)はしていられないという意気込みを示すためと、合格のあかつきには、新しい弦を張って、一番最初に麻希にこの歌を聴かせてやろうという、たわいのない私的な目標を持ちたかったからである。翌春、合格発表の翌日にギターの弦を買い、やっとつかまり立ちをした麻希に、この歌を聴かせた。合格の喜びと、久しぶりにギターを弾ける嬉しさにはしゃぐ私を、麻希は大きな瞳できょとんと見つめていた。麻希にふさわしい叔父さんになる第一歩であった。

 細君が差し出した四枚のカードは、麻希が私たち家族にあてたカードだった。一枚ずつ読んでいき、最後に自分宛のカードを開いた。

アッキーへ(注:私のことを家族はみんなアッキーと呼ぶ)
麻希は小さい時、アッキーみたいになりたかったんだよ。何でも作れて、きれいな絵が描けるアッキーを真似して、同じようなイラスト入りのカードを作ろうとしてみたり、似たような粘土細工をしてみたり・・・・。ものをつくる事が好きになったのは、アッキーの影響が大きいと思います。アッキーは麻希の自慢のおじさん。今までたくさんの愛情と楽しい思い出をありがとう。これからもよろしくね! 麻希より

 暫くカードから目が上げられなかった。読み返すことも出来なかった。視線を動かすだけで、感情が溢れ出だす。ありがとう。礼を言いたいのは私のほうだ。麻希があの時生まれてこなかったら、今の私はなかったかもしれない。目を大きく見開いて、まばたきをしないようにして静かに顔を上げた。細君は私の涙に気づかない素振りで、ぽつりと呟いた。
「いい結婚式だったわね。」
「うん。」と言おうとしたが、言葉にならなかった。



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